パラリンピックに注目している、七子です。
テレビで見ていて多くの気づきを与えてもらっています。
それについて、息子の意識と私の思いを書いてみたいと思います。
(文章のなかで表現が適切でないところがあるかもしれません。でも、それは誰か傷つける意図ではありません。)
驚きのパラアスリート
息子を見ていると、子どもは純粋で「ありのまま」を受け入れられるんだなぁ、と思わされます。
パラリンピックで紹介される選手を見て、
「おかーさん!あの人、すごいんだよ!
手がないのに 卓球するんだよ~。」
と息子が興奮しています。
息子が見たのは、卓球のエジプト代表 ハマドトゥ選手。
事故で<両腕>を失った彼のプレースタイルは……
ラケットを口にくわえて打ち返し、
サーブは足で投げ上げる!!
そりゃ小3の息子も「不可能を可能にしてる!?」と驚くわけです。
(息子、この選手のことを5回は私に語ってきました。)
ほかには息子が好きなのは競泳。
どんな障害があっても自分なりのスタイルを編み出して泳ぐ選手たち。
バタフライは両手を同時にまわす泳法ですが、両腕のない選手も出場していました。
当然、腕がないのですから回せません。
頭と腰、脚のうごきでイルカのように滑らかに泳いでいます。
体の軸がしっかりしてブレないからできる、まさにお手本のような泳ぎ!
わたしには想像しかできませんが、バランスをとるにも腕がないぶん健常者より苦労するのでは??それを努力と練習で習得するには相当な時間がかかったはず。
感化された息子は
競技を見ていた息子がソファに転がり怪しい動きを始めました。
……ん? イモムシ??
なにしてるの?と息子に聞くと、
「もし ボクが うでがなくて
バタフライ 泳ぐ としたら……
って 想像して やってたの!」
はっ!選手に感銘をうけてマネしてたのね~。
イモムシとか思ってゴメン……。
テレビで見ている息子でさえ、これだけの影響を受けているんだから、
選手の躍動を目の当たりにできる子どもたちは、それ以上のものを感じとっているのでしょう。
コロナ禍でパラリンピック観戦に対して否定的な意見もありますが(それも理解できる面もあります)、子どもたちにとっては一生に残る経験になるのも間違いではないはず。
……と、わたしには思えました。
いろんな障害があると知り、
パラリンピックは障害の種類や程度によって区別されています。
漢字も読めるようになったし解説も聞きとれるようになってきて、息子に「知的障害」について質問されました。
私の知るかぎりを伝えましたが分かったのかどうか……。
テレビを見ながら息子が、
「ボクには しょうがい が
なくて よかった。」
と、言いました。
……私は、なんと答えたらよかったのでしょうか?
発達障害のなかでも軽度~重度まであり、特性も人それぞれ。
会話が難しいような重度の人もいるし、
軽度でまわりにも話さず、社会のなかで生活する人もいます。
まだ告知もしていないので、言えるわけもなく。
二次障害がでなければ一般社会で自分で稼いで生活していくはず。
でもどこかで自分が周囲の人とはちがうなぁと気がつく時がくるでしょう。
息子はハザマの子だなぁと改めて思います。
自分で自分にどう折り合いをつけるのか、親は見守るしかできません。
障害者の区別と、多様性の社会に
発達障害のように境い目がわからないスパイラルで健常と障害のハザマにいる人もいれば、
病気や事故で、ある日突然「障害者」になる人もいます。
誰だって、こちら側からそちら側になるのかもしれない。
そもそも、その線引きすら他人がする必要はないと思うんです。
……なんか、理想論を語っちゃってますね。
自分の限界をこえて挑戦するパラアスリートたちを、
驚き、感動し、尊敬する、
純粋に今ある気持ちを保ちつづける大人になってほしいです。
一方、障害者の方をみて勝手に感動とか同情するな、という「感動ポルノ」という言葉もあります。
その意見も理解できます。
私の文章力ではうまく伝えられなくて、もどかしいのですが……
でも、大人のようなうがった見方ではなく、
子どもたちは純粋に受け止めて自分との違いを知り他者を理解する学びになると思います。
パラリンピック観戦をした子どもたちには、線引きは必要なくなるのではないでしょうか。
息子にも自分の違いを認められる、おおきな心をもってほしいな、と切に思います。